赤い砂漠

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1965年 イタリア
原題  Il deserto rosso
監督 ミケランジェロ・アントニオーニ


先日、マイベスト映画で「気狂いピロ」について語った時、カラー映画につい触れたのだったが、そこで今回、カラー映画の良質な作品を紹介してみたくなった。色々あるのだけれど、念頭にぱっと思い浮かんだのがミケランジェロ・アントニオーニ作品「赤い砂漠」である。
作品が製作されたのは「気狂いピエロ」とほぼ同時期である。「赤い砂漠」においても、カラー映画に対する意識的な創作を見ることができる。ただフランスのゴダール監督とイタリアのアントニオーニ監督では創作手法に違いもあり、その違いを見てとるのも面白い。
イタリアから連想するのは、南仏と同じように澄み切った青い空、太陽の光であってもおかしくはない。しかし「赤い砂漠」の舞台となったラヴェンナのように、イタリアの北部地方は気候も湿潤となり、冬は濃い霧と寒さに包まれる。映画の主人公は女性である。演じるのはモニカ・ヴィッティ。工場の主任技師を夫に持つ比較的裕福な暮らしをするジュリアナは、交通事故を起こしたのが引き金となって精神的な病を抱え込んでいた。夫婦には一人息子もいたが、妻であり母でもあるジュリアナは上手く家庭を築けていなかった。そんな時ジュリアナは、夫のウーゴから彼の知人であるコラドを紹介される。夫とは意志疎通ができず、愛することができなくなったジュリアナは自分に興味を示すコラドに親近感を覚えだし、逢瀬を重ねていくことになる。しかしコラドでもジュリアナを精神的病から立ち直らせることはできなかった。一夜を共にした直後にジュリアナはコラドに非難を浴びせる。あなたも私を助けてくれない、と。
精神的な病、今で言ううつ病を患った女主人公ジュリアナを通して、アントニオーニ監督の普遍的テーマである”愛の不毛”が本作品でも語られているのだが、その世界をカラーで表現するにあたって、アントニオーニ監督は淀んだの曇り空を背景にした冬の北イタリアをカメラで描いていった。

アントニオーニの作品世界は静的である。街中でも非常に静かで、人影はない。街の風景は登場人物の心象風景として映されている。ウーゴに紹介されてジュリアナに興味を持ったコラドは、ジュリアナが開こうと計画しているブティックを訪ねてみる。ジュリアナは内装をどうしたらよいかとか出店の計画を楽しんでいる。ところがブティックのある街の通りには誰一人とし歩いている者はなく、くすんだベージュ色の石畳の道と同色の建物が廃墟の如くたたずむばかり。このあたりの色調を抑えた、シックなたたずまいには、モニカ・ヴィッティの尋常でない美しさも手伝って、モードの国イタリアならではのオリジナルな美意識を感じる。

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モニカ・ヴィッティ

そして最もカラーが鮮烈で印象的な場面が、ジュリアナや夫のウーゴ、コラドその他数人の男女が川沿いの秘密の小屋のようなところに集まって、乱交パーティーみたいなことをするシーンだ。
一体このシチュエーションはどういう類なものか私にはよく理解できない。それなりに裕福なジュリアナたちが集まるには見るからにみすぼらしい小屋というのも不思議だし、集まった大人たちは酒を飲んで思い思いに抱き合ったりベットに寝転んだりもするが、決してエッチをするわけではない。マリファナを吸うわけでもない。ただ小屋の内装はどぎつい赤いペンキで塗られ、その赤い空間の中で集まった者たちはきわどい悪ふざけにうつつを抜かす。「赤い砂漠」という作品が、あくまで女主人公ジュリアナの心象風景を通して描かれていると考えれば、その赤い内装の小屋での集まりは、病的な世界、欲望と狂気が支配する殺伐とした世界のメタファーであるのだろう。砂漠というよりはむしろ、砂漠の果てに出現した、火山性ガスの吹き出る荒地というべきか。
本作品にはもう一つの仕掛けが組まれている。それは場面場面で現れる工場の風景だ。愛の不毛を語るには不似合いなシチュエーションでもあるのだが、アントニオーニ監督は、工場の煙突から噴き出る白や黄色の排煙、敷地内に並べられた大量のドラム缶、大規模な送電線の工事の光景を描くことで、工業化と高度成長を進めた60年代イタリア社会に生きる人々の”愛の渇き”を表現しているのだろう。



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